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【恐れ02】幽体離脱の体験を続ける中で」からの続きになります。


今回の記事が、「死の恐れ回想メモ」カテゴリーの本当の意味で出発地点になります。

自分の人生を大きな影響を与えた「ノストラダムスの大予言」

はっきり言って、こんな事を書くのは恥ずかしくなってしまいますが事実なのでこれを書かないと先へ進めません。


実は、今ではインチキが証明されてしまった「ノストラダムスの大予言」を本当に信じてしまったのです。


当時の日本では、テレビなどでも特集が組まれるくらいの大ブームでした。


知らなかったのですが、最近冨田勲氏が亡くなった時に知った情報で、1984年に映画「ノストラダムスの大予言」が作られ、その音楽を冨田勲氏が作成していたというのですからびっくりです。


自分の場合は、初めて買ったLP(CDはまだ無い時代)が冨田勲氏の「惑星」でそれ以来のファンでしたが、この映画があることや冨田勲氏が音楽を作っていたとは知りませんでした。


話が寄り道にそれました。


今と違ってインターネットなど普通の人たちが使えるものではなく、情報入手手段といえば「新聞」、「テレビ」、「本」くらいしかない時代です。


その当時、まだ高校だった自分は完全に信じてしまったんです。


そして、それからの人生にとても大きな影響を受けることになります。


今では、当時の五島勉さんの「ノストラダムスの大予言」についての調査が行われ、トンデモ本だったことがだいぶ明らかになっているようです。


予言書というよりも、作家五島勉さんのフィクション的な作品を何故かノンフィクションであるかのように販売してしまったようです。


なので、この記事ではこの本の内容については意味が無いので触れません。


重要なのは、この予言を信じた結果、はっきりした終わり方はわからないものの自分の寿命を1999年までと信じたことでした。

自分の死を受け入れるためにもがく日々

それから自分の人生の「第一優先事項」が決定しました。


それは、『1999年までに「自分の死を受け入れられる」ようになる』です。


当時の自分には、想像することすら出来ない「難問題」でした。


まだ、何もわからない学生時代です。


しかも、このカテゴリーの最初「【恐れ01】小学校5年の時に生きる意味を喪失する」に書いたように、「死」=「無」しか頭にはなかった時代です。


とても、「自分の死」など受け入れることなど出来ません。


そんな自分が「自分の死」を受け入れるための悪戦苦闘の日々に入ることになったのです。


とは言っても、誰にも相談することなど出来ませんでした。


そんな時の、唯一の情報源は「本」でした。


そして、いろいろな本を読むようになります。


「死」にまとをしぼった本を片っ端から読みました。


結局、次のような本を読んだと思います。
  • エリザベス キューブラー・ロス
  • 臨死体験
  • 輪廻転生
  • 生れ変り
  • エドガー・ケーシーの関連本
      転生の秘密
      エドガー・ケイシーの続転生の秘密
  • 宗教/仏教etc

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    既に30年くらい前の話になるので、今となっては詳細は覚えていません。

    いろいろ調べた結果は?

    いろいろな本を必死に調べ、今まで知らないような情報をいろいろ知るようになりました。


    宗教関連の情報を調べていると出てくる、死後の世界についての可能性も考えるようにもなりました。


    その理由に、自分が個人的に体験している「幽体離脱」とか「体外離脱」と呼ばれる体験の影響も大きいです。


    それについては、このブログでもいくつも記事を書いているのでそちらを見てください。


    その中で、影響を受けた情報は「輪廻転生」と言う考え方です。


    仏教などで「輪廻転生」が出てきたと思ったのですが、自分の記憶ではブッダ自身は「輪廻転生」と言う考え方は取っていなかったように思います。


    ただ、自分にとっては仏陀がどう考えようがどちらでもいいのです。


    結局、人からの知識は役には立たないのですから。


    自分で、経験するまでは本当のことはわかりません。


    わからないことに、意味のない時間を使う気にはなれないのです。


    最終的な結論は「保留」することにしました。


    実際、現時点でも「保留」のままです。


    自分が死ぬまでは本当のことはわからないのですから。


    但し、大きく意識が変わった事があります。


    「輪廻転生」の考え方を知ったことによって、「死=無」では無い可能性があることを知ったからです。


    「死=無」は、「【恐れ01】小学校5年の時に生きる意味を喪失する」で書いたように、自分に取っては生きる意味そのものを否定する問題として引きずっていました。


    その為、すごく建設的にものを考えられるようになれたのです。


    「死んだら終わり」では、あまりに色々なことに対する張り合いが出ないからです。


    何かしら、残るものがあるのなら経験に意味が出てくるように感じたのです。


    この情報だけでも、少しだけ楽に感じることが出きるようになりました。


    とは言え、これを確認する方法はありません。


    結局のところ、自分が死ぬまでは何もわからないのです。


    もし、「死=無」だったら、死んでもわからないのです。


    死んだ時には、わかる人がいないと言うことなのですから。

    何も解決していない

    それで、元々有った「死の恐怖」が消えたのか?


    と言われたら、何も解決はしていなかったのです。


    自分にとっては、「転生輪廻」という知識は、「死の恐怖」に対しては、何の解決にはならなかったのです。


    そして自分の目的がもう少しはっきりして来ました。


    「自分の死」をどうしたら受け入れることが出きるかです。


    別の言い方をすれば、「今、死ねるか?」です。


    その時の自分(今ではそんなに変わっていませんが)には、とても「死ねる」とは言えませんでした。


    そんな中で、自分が新たに求めることになったのは「悟り」でした。


    今から考えるとバカな話ですが。


    「悟り」を求めて長い旅路に旅立ってしまったのです。


    求めたら最後、絶対見つからない旅にでてしまいました。


    その当時「悟り」は、全ての問題を解決してくれる「万能の薬」のように勘違いをしてしまったんです。


    次の記事ではそれらの体験について書いて行きます。