幸福になりたい。


よほど特別な状況でもなければ、多くの人が普通に願うことではないでしょうか?


そして幸福を求めていろいろな試みを行うようになります。


学生なら勉強を頑張ったり、社会人であれば社会的な成功を目指すのではないでしょうか?



その他にも、神社にお願いしたり、げんかつぎも行ったりするかもしれません。



それらの欲求の根底には、自分が「希望すること」を求め、反対に「希望しないこと」を避けたいという思いが有るのではないでしょうか?


そう思うのは当たり前のようにも思えるのですが、自分の場合は状況が違ってしまいます。


そうなってしまったのは、まだ20代の頃に「下記の質問と回答」を見たからでした。

少し長いので、興味のある人は「どこで幸福はいつも見つかるのですか?【愛と瞑想の道より】」を見てください。


ここでは、一部を引用して話をすることにします。



質問「どこで幸福はいつも見つかるのですか?」



この質問になります。


この質問に対してバグワン(注1)の回答は次になります。

辞書のHの項を引いてごらん。幸福(happiness)がいつも見つかるのはそこだけだ。


と言い切っています。

言い方を変えれば、常に幸福など「ありえない」と言っているのです。

ひと言で「突き放した」という感じです。


それから、説明に入ります。


この世の中は全て「相反するもの」で出来ていると。


成功出来るのは、失敗する可能性がある時だけだと・・・


最初、この言葉を聞いたときのショックは忘れられません。


その当時は、怒りながらバグワンの言葉を繰り返し読んでいたことを覚えています。


怒っているのだけれど、読まずにはいられませんでした。


この回答の中で、それでも「常に幸福な人」は「あり得る」と話を続けます。

幸福な人というのは、不幸なときにあってさえ幸福でいられる人のこと。これを理解してそこにある対極を見てごらん。幸福な人とは、生を理解してそこにある対極を受け入れる人だ。彼は成功とは、失敗ということが可能であるからこそ可能なものと知っている。 だから失敗がやって来たら、それを受け入れる――。


ショックでした。


”不幸なときにあってさえ幸福でいられる人”だって?

それはそうです。

”不幸なとき”に”幸福でいられる人”だったら問題などあろう筈もありません。

ただ、その当時は、このことを本当にはわかることが出来ませんでした。


その話の中で、バグワンはさらに説明します。

 幸福がやって来たらそのときは幸福を楽しみなさい。 不幸がやって来たらその不幸を楽しむがいい。 幸福なときにはそれと共に踊り、不幸なときにはそれと共に泣く・・・。 それが、楽しみなさいと私が言うとき意味すること。


そして、もっと説明してくれます。

 不幸というのはなければならぬもの。 もし、あなたに不幸を、幸福を歓迎するのと同じように受け入れることができたら、あなたはその二つともを超越できる。 その受容そのものの内に超越があるのだ。 そうなったら不幸であろうと幸福であろうと、あなたにとっては大してちがいはしない。 あなたは同じままでいられる。


この

”あなたに不幸を、幸福を歓迎するのと同じように受け入れることができたら”


ここの言葉の意味が自分の中に浸透するのに長い月日が必要でした。

今は、少しですが、この言葉の意味が自分の体験として理解出来るようになって来たからです。


すべての物事は、ただ、起きています。


「いい」とか「悪い」と呼ぶ必要はありません。


「いい」とか「悪い」と言うから、余計な問題を作り出してしまうと思います。


出来事はただ起きます。


すべての出来事は自分にとって必要なことだったのと思います。

必要と言う考えもいらないのかもしれませんが…


出来事を体験する。

ただ、それだけなのですから。


そして、すべての出来事をそのまま受け入れたとき、家(ホーム)に戻ったのです。



注1)バグワン・シュリ・ラジニーシその後名前を何度も変えるが最終的には和尚(OSHO)と呼ばれる。