『ある日、Aさんに馬鹿にされて、カンカンに怒った私Bという状況で考えてみます。』

 

普通の解釈では...

この事件の主体はAになると思います。

Aが自分の意思で、Bを馬鹿にする。

Aの好きなタイミングで、Bを馬鹿に出来ます。

そのことに対してBは、完全に無力な存在です。

 

今は、例として馬鹿にするを使いましたが、喜ばせることだって同じです。

Aが、Bを喜ばせようと何かをする時も同じ理屈が成り立ちます。

この状況だと、AがBに対して怒らせることも、逆に喜ばせることもAの思いのままになります。

Bから見ると、怒ることも喜ぶことも自分で決めることはできません。

全て、Aの気分次第でBの状況が決まる奴隷のような状態です。

 

はたして、これは本当でしょうか?

始めに戻って、AがBを馬鹿にした時、Bは怒らなければならなかったのでしょうか?

BはAに馬鹿にされた時に、怒らないという選択も出来たはずです。

誰も、他人が何を考えるかを強制することはできません。

もし、Aに馬鹿にされ時に、Bが怒りを感じてしまったのなら、それはB自身が選んだことではないでしょうか?

多分、Bの中にはきっかけさえあれば爆発してしまう怒りが隠れていたのでしょう。

そして、その時のBは自分の中にある怒りに対して抵抗することが出来なかったのでしょう。

それでも、最終的に怒りを表現するかどうかの選択権は、Bが握っていた筈です。

つまり、怒り自分自身の選択の結果なのです。

Aがした行動は単にBの怒りに対する原因を与えただけです。

 

このことは、とても感謝すべき事だと思います。

なぜなら、最終的な選択権自分自身にあるのですから。

もし自分に選択権がないとしたら、どんなに頑張ろうとしても努力すらできないのです。

でも、自分が問題を作っているのなら、自分自身の力で解決できる可能性が出てくるのです。

 

自分の問題を作っているのは、自分自身だと言う幸せ。

こんなに、ありがたいことはありません。