はじめに

<広告>



ジョーイ・ロットさんの「これのこと」を読みました。

千代能にとって、この本は予想以上に自分に合った本だと思いました。

読み終わったので、感想を書きました。

何故かブログの記事に書くときには、好き勝手に書いてしまいますが大目に見てやってください。

おきまりですが、はじめに断わっておきます。

これから書くことは「千代能の理解」による感想になります。

もちろん「千代能の理解」はジャーイ・ロットさんの伝えたい内容とは違ったものになっていると思います。

あたりまえですが(汗)


本の構成


この本の構成について、「訳者あとがき」に説明があります。



「訳者あとがき」より (P.222)



まず、本の構成について。


この本は、非二元についての著者の作品の中でもっとも人気がある
“You’re Tryning Too Hard”、
それからジョーイ・ロット版
ダイレクトパス実践ガイドとも言うべき
“No One Home”、
の2冊に、
動画シリーズ
“Nothing In The Middle”
からピックアップした20のQ&Aを加えたものです。


Q&Aは、視聴者から送られてきた質問メールに対して
即興で答えるというかたちで展開します。


全体の感想


最初に、全体の感想を書いてしまいます。

びっくりするくらいシンプルで、すべては本のタイトルでもある「これのこと」に戻って行きます。

いろいろな非2元のマスター達も話にでてきますが、ジョーイ・ロットさんが特徴的なのは、
すべて「これのこと」で押し通していることです(笑)


千代能もいろいろな人達の本を読んでいますが、ジョーイ・ロットさんの話は群を抜いてシンプルだと思います。


本を一通り読んで見て思ったのは、千代能が共感出来る場所がとても多いことです。

多分、いままで読んできた本の中でトップ3に入りそうです。

これからも本を読むと思うので変わるとは思いますが(汗)

どのくらいシンプルかと言うと、この本の「帯」や「そで」に書かれていることを読んだだけで大半を表してしまっているという、暴言を言ってみたくなるレベルです(笑)

ま、実際に読んでみると、いろいろなところで興味を引く内容がたくさんあります。


この本のそでは下記になります。

「本のそで」

僕が言っている「これ」っていうのはなんのことだろう。


ただののこれだ。これがなんであれあれ。
まったく今あるとおり。たった今のこれ。
思考より前。概念より前。ただこれ。
なんであれ、直接の経験で見つかるもの。


ある意味、これを見ただけでわかる人はわかると思います。

わからない人のために、いろいろ説明をしたら本になったという感じです。

世の中には、いろいろな精神世界の本や、非二元の本などはいろいろバリエーションがあって何が大事なのかさっぱりわからなくなってしまう可能性があるのですが、この本は、すべてが「これのこと」に帰結するのでわかりややすいと言うかインパクトすら感じます。

なので、この本は「これのこと」で、何を指し示しているかがわかるかどうかが鍵になりそうです。

この本は、ジョーイ・ロットさん自身が抱えていた問題から解放された経験から書かれています。

なので、「これのこと」をもっといろいろな人達に知ってもらいたいと言う動機で活動していると読み取れました。


予想されるつまずき


ジョーイ・ロットさんの「これのこと」は、非常にシンプルです。

それ故に予想される困難さがあります。

それは、あまりにもシンプルすぎて説明する余地があまり残っていないのです。

言い方を変えると、わかる人には当たり前だけれど、この表現でわからなかった場合の説明が難しくなってしまうのです。

ジョーイ・ロットさんも何度もそんな状況に遭遇しているようでこんなQ&Aがありました。

Q&A「探求を終わらせたい」より


特徴的なQ&Aが取り上げられています。

「探求を終わらせたい」です。

質問者は、存在しているのは<これ>だけだということ、中心にいる「自分」は幻想だということを私は概念としては理解しています。

・・・中略・・・

行き詰まっています。
なにをすればいいのかわかりません。探求をこれ以上続けたくありません。

・・・略・・・



この本を読めばわかりますが、ジョーイ・ロットさん自身も質問者と同じ経験を続けたことがありました

そして、千代能もその気持ちがよくわかります。

千代能の場合は、20代から30年以上そのような状況を過ごしましたから長いです(笑)

先が見えない旅にでてしまった感覚です・・・


後でわかったのは、「探求」事態が問題だったことに気づいたことです。

ジョーイ・ロットさんもそのことを何度も口にしています。

「探求」を止めなさいと!

ジョーイ・ロットさん的な言い方はこうなります。

P.211

ともかく手放してみよう。

ただ手放す。



P.213

たった今この瞬間、見ること、聴くこと。、経験することが起こっている。


P.214

ただ手放せばいい、たった今。

すごく地味な答えだけど(笑)、まあいい。

だから、ただ手放そう。
一瞬だけ、ただ手放してみる。


P.215

それで、言っているのはいつも同じこと、「くつろいで、手放そう」ってことだけだ。



ただ手放す。

その通りだと思います。

自分もそう思いました。

「探求」をすること事態が「唯一の障害」だと後になってわかりました。

馬鹿みたいです。

耳たこで何度も聞かされてきたことだけど、聞いただけじゃわからなかったと言うのが実感です。

印象に残った話


とくに書いて起きたいのは観念のところ。

ここは、はっきり意識しておきたいところだから引用しておきます。

本当はもっと長い説明の中から一部だけを印象しているのでわかりづらいと思いますが、詳しく知りたい人は本で確認してください。

「壮大な観念」より引用(P.21)


ここに書かれた言葉を読みながら、自分にはそれぞれの言葉の意味がわかっていると思っていることに気づくだろうか?
それぞれの意味についての自分の考えに合わせて訳しているってことがわかるだろうか?
そこにひとつだけ問題があるとしたら、それは言葉にはなんの意味もないってこと。
それは言葉にはなんの意味もないってこと。
観念は単にそう、観念だ。
何も意味していない。
ブラフマンはない。
悟りはない。
ブラフマンや悟りについてどんな観念を抱えていても、それは真実じゃない。
現実とは違う。


もう少し説明しないとわかりづらいかな?

観念は、現実じゃないってこと。

単なる、空想の世界。

現実は、目の前にある「これのこと」。

気になったこと


後、気になったことを書いておきます。

それは「エゴ」について

「エゴ」のところで、ラム・ダスとエックハルト・トールがメチャメチャけなされています(笑)

ここのところです。

最初は、ジョーイ・ロットさんのエゴの定義。

「エゴ」より P.63

エゴというばかげた概念を現在の大衆文化に広めた人が2人いる。
ラム・ダスとエックハルト・トールだ。
この2人はかなり尊敬されているから、ほとんどの人はエゴの存在をしばらくは信じ続けることになりそうだ。



P.64

エゴは悪で、解放をつかむために倒さなければいけない敵だと僕らは教えられる。
・・・
存在していないコインがある。
片面はエゴ。
もう片面は魂だ。
エゴのない魂を人は求める。

それはふたつの意味で無理だ。
まず、片面しかないコインというものはない。
それから、コインは存在していない。



つまり、エゴはないと言うことですね。

ラム・ダスさんの本は持ってないので確認できませんでしたがとエックハルト・トールの本はありました。

エゴについてこう書いてありました。

次はエックハルト・トールさんのエゴの定義。

P.36「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」

大人になるにしたがって、わたしたちは、個人的及び社会的環境に基づいて、「わたしは誰か」、というイメージを形成していきます。
この「にせの自分」は、またの名を「エゴ」と言います。
エゴは、思考活動があることで、その存在が成り立っています。
エゴは、たえず考えることによってのみ、生きられるのです。

エゴという言葉は、人によって解釈はまちまちですが、わたしが本書で使う場合に、自分でも気づかぬあいだに、思考と自分を同一視することでつくられる、「にせの自分」を意味しています。

思考を自分と同一視することで作られる「にせの自分」と言っています。


自分から見ると、どちらもそんなに差を感じることがありません。

こんなにトンガル必要があるのかな?

と言う印象です。

最後に一番共感できるところを書いておきます


P.44
あるということの単純さと神秘体験は関係ないってことを僕は証言できる。


と言うところに関係するところ。

悟りに関するいろいろな予想される体験だとか、マスター達の神秘体験やドラッグによる体験まで出して話をしています。

でも、結局は悟りとは関係ないとなります。

自分もそう思います。

体験は、体験です。

「悟り」とは関係ありません。


多分、この段階の話になると言葉の定義の話になってしまいます。

何を「悟り」という言葉で指し示しているのかということ。

千代能の感じでは、誰もが普段の生活で体験している日常そのものが「悟り」だと思っています。

多分、ジョーイ・ロットさんも同じじゃないかなと思います。

すべての人の目の前にある「これのこと」です。