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アジズとの対話/アジズ・クリストフ(著)天野清貴(原著)

久しぶりに「アジズとの対話」を読み直しました。
改めてとてもいい本だと思いました。
且つ、いろいろな人のヘルプになる本だとも思いました。

今回読み直してみると、以前読んだ時と自分の状況に変化があったようです。
この本は、天野清貴さんが、まだ悟りとは何かもよくわからない時に、アジズ・クリストフさんから受けた4日間の個人面談の記録です。
以前読んだ時には、ほぼ、天野清貴さんと同じような立ち位置にたって本を読み、その当時の天野清貴さん話にとても共感ができました。
今回、読んで見ると逆にアジズ・クリストフさんの話に注意がいくように変わっていました。

この記事を書くに当たって最初に注意を書いておきます。

この個人面談の記録を読むと、当時の天野清貴さんの悟りへの探求心が半端ないことがわかります。
また、悟り体験に対して特別な境地を期待していることも読み取れます。

それは、ある意味当然のことだと思います。
天野清貴さんは、和尚(OSHO)の元で長く活動している人です。
自分も和尚(OSHO)の本を、めちゃめちゃ読んでいて、同じような状況でした。

瞑想の世界に入ったのはいいけれど、迷子になってしまって途方にくれていた状態です。

天野清貴さんの別の本の中で出てくる「フーマン」は、和尚のことを次のように話しています。



OSHOは世界教師だ。
彼の役割は、人々に悟りを与える事ではなかった。
大勢の人々を、悟りの道へと導く事にあった。

「恩寵の扉が開くまで フーマンとの出会い」より (P.23)



和尚好きの自分として、耳の痛い言葉ですが長い間途方にくれてしまった自分としては何もいえません。
今となっては、その理由もわかります。
和尚の大量の書物の中から、自分に必要な情報を選び成果を出すのは難しかったのです。

そして、大きな障害と感じるのは「悟り」への先入観です。
今は、悟りという「言葉」を使うのも抵抗がある程です。
悟りと言う言葉で、わけのわからない夢物語を想像されてしまうように感じてしまうからです(汗)

普通の人が日常生活で「悟り」と言う言葉を使う機会はまず無いと思います。
それでも悟りという言葉を聞くと、仏陀の悟りのような、よくわからないけれど特別な人の特別な体験のようなイメージがあるのではないでしょうか?
少なくとも、以前の自分はそのように感じていました。

このブログの他の記事に書きましたが、自分の場合は「死の恐怖」から宗教や悟りの世界に入りました。
そこでいろいろな先入観と言うゴミを集めてしまったのです。
そこで語られるのは、すべて自分とは別の人が体験で、自分では確認出来ない情報でした。

多くの宗教では、信じる/信じないのゲームになってしまっています。
本来なら、本物を見れば信じることも信じないことも必要ありません。
事実は目の前にあるのですから。
信じようが信じまいが、事実は変わらないからです。
問題は、自分で事実を見ないことに始まっているように思えます。

そしてさらに困ったことは、「悟り」と言う言葉で伝えようとしていることは、言葉の定義の外にあるのです。
はじめから、言葉で説明できないものなのです。
そのことについては、いろいろな人が「月を指し示す指」の譬えを使っています。
言葉は、所詮指なので、いくら指の形や色やその他を調べても何の訳にたちません。
指が指し示す方向に視線を向け「月そのもの」を見なければならないのですから。

前回の記事「これのこと」の感想の中で、ジョーイ・ロットさんが同じ問題に直面していました。
そして、ジョーイ・ロットさんは、言葉では説明できない「これのこと」を言葉で説明しようと頑張っています。
けれど、結局はわかる人もいるし、わからない人もいるのです。
頑張って説明を試みてはいますが、わからなかったらお手上げなのです(汗)

この「アジズとの対話」では、次のように説明しています。



理解について  (P.28)

天野清貴さん え? だったらやっぱりこの私(Me)に到達していない訳だから、私(Me)を探求し続ける必要があるのでは?

アジズ いや、あなたの知性がこの体験を理解していないと言うことだ。すなわちこういう意味だ。その体験をどう解釈するかは、どう翻訳するかによる。そしてその翻訳はあなたの知性によって条件付けされている。そしてその知性は繊細さの程度が条件付けされている。だから、こういう事だ。たとえあなたが完璧に悟ってもそれをあなたが理解出来ないという事はありえる。



>たとえあなたが完璧に悟ってもそれをあなたが理解出来ないという事はありえる。

つまり、理解出来ないと言うことは、「悟った」とは思っていないと言うことです。

そして、困ったこととに多くの人が想像している「悟り」と、アジズの語る「悟り」はまったく違う可能性が高いのです。

それゆえに、気づかないのです。

この本の中で「アジズ」と「天野清貴さん」のこんな会話が出てきます。



「悟りとはシンプルなもの」より P.30 ~ P.31

・・・
まさにこの私(Me)を思い起こせば、あなたは悟りの状態にいるのだ。あなたが思い起こし続ける限り。これがいわゆる気づきの悟りだ。

天野清貴さん 悟りとはそれだけじゃなくて、もっと大きなものだと理解しています。

アジズ いや、いや、それはもっとシンプルなものだ。それがポイントだ。あなたはシンプルさを見逃している。悟りはシンプルだ。あなたはそれを何か大きなものと考えている。
 だからあなたはそれに到達しない。

天野清貴さん ……。


この当時の天野清貴さんには、悟りとは特別な体験を期待しているようです。
この本の中で出てくるのですが、天野清貴さん自身が病気の後に体験した特別な経験や、禅寺の修行時に体験した特別な体験こそが悟りの体験の一瞥だと考えていたようです。
ただ、そんなものは悟りではないと、アジズにバッサリと打ち捨てられてしまったわけですが(汗)

アジズ自身は、悟りを大きく3つに分けて考えているようです。



悟りの段階について P.24

一つは純粋意識の悟り(Enlightenment to Pure Awareness)だ。それはマインドからの解放をもたらす。完全な沈黙だ。次は絶対状態の悟り(Enlightenment to Absolute)で意識を超えている。それは存在(Being)を通して起こる。腹のセンターを通して反対側にシフトする事で。ブッダはこれを不生(Unborn)と呼んでいる。それは意識より高いレベルだ。3番目の悟りはハートの悟り(Enlightenment to Heart)だ。


そして、この「アジズとの対話」では、「純粋意識の悟り」がメインの話題になっています。
それは悟りを求める天野清貴さんに行った、アジズからの「純粋意識の悟り」へえの手引きのような個人面談だからです。
それ故この本は、まだ「純粋意識の悟り」とは何を意味しているのかわからない人にはとても役に立つ情報源だと思います。

最後にアジズの「純粋意識の悟り」について簡単に説明しているところを引用してみます。



P.13 ~ P.14

天野清貴さん
 目覚めと言うのは?

アジズ マインドにはセンターがあるという事を発見することだ。

すなわちマインドの中に私(Me)がある、それぞれの感情の背景に私(Me)があるという事だ。

・・・

 だからこの私(Me)というものをマインドの内容、マインドの動きから分離する事が必要だ。そして本当の純粋な私(Me)を発見する。それがアートマン(真我)と言うことだ。これが最初の目覚めだ。純粋な私(Me)を発見することだ。次のステップは絶えずキープする事、決してそれを失わない様にする事だ。